アブストラクト大好き?!
わしが首尾一貫として嫌いというか苦手意識があるタイプのゲームがある。
互いの全ての情報は公開されており、完全実力勝負、テーマがほとんどない、そうアブストラクトと呼ばれるジャンルだ。
ここでわしのアブストラクト人生を語ってみよう。
小学校のとき、従兄弟ん家にあった将棋をみてひたすらひょこ周りばかりをやる。
やたら強い電子ゲームのオセロに腹を立て、最強設定で全部を自分の色にするお父んを世界一強いと心の底から思う。
ひょこ周りをやっているとき、たまには別のゲームをやるかと出てきたのがチェスであり、裏面に動かし方が書いてたので、ちょっとだけチェスに興味を持つ。
これはおもろいんちゃうのと思って定石本まで購入したが、お父んが定石通りに動かしてくれないのをみて腹を立てる。
磁石で出来た碁盤の五目並べを覚える。
中学生のとき、将棋がちょっとだけ流行るが、「わしはチェス派やから」といって面目を保ちつつ、断る事が出来た。その後、雀ピューターからやたら麻雀が流行り、そればっかりをやる。
高校生の時、11pmや麻雀放浪記から、自宅にあった麻雀パイを使って燕返しや爆弾、元禄積みなどのイカサマを練習するが、ふとした事で自分が麻雀がとても弱い事に気づく。というより面白くない事に気づき、麻雀を辞める。
大学生の時、○×は先行でないと勝てない事実にようやく気づく。
社会人になって、ヒカルの碁に触発され、囲碁を覚えたくなり何度も立ち読みしたが、動かし方がさっぱり理解出来ず、無料であったPalm囲碁で覚える事にする。
やたらめったら勝ちまくったので、ひょっとしてわしゃ、囲碁の天才か? と思ったが、その後、パソコン版の一番弱いレベルにこてんぱんにやられて、マンガだけで楽しむ事に決める。
※ 麻雀はアブストラクトじゃないけど、ちょっと入れてみた。
これをみての通り、アブストラクトはかなり弱い。弱いだけでなく楽しさが分からない。弱いから楽しさが分からないというよりも、楽しさが分からないから弱いのかも知れない。
わしがゲームに求める楽しさというのは、ボードゲーム嗜好テストでも書いたように、今ある突発的な状況をどのようにひっくり返すかである。だから理不尽なイベントでもなんとも思わない。それがゲームの根底をひっくり返すようなものでない限り。
ゲームにテーマを求めるのはそれである。テーマに沿ったイベントであるなら、許せるのだ。たとえば、アラビアンナイトの世界に魔法はつきものなので、逆に魔法のないアラビアンナイトは嫌である。魔法といえば理不尽の塊なので、どれくらいまで認めるかというのは重要だが(これを唱えれば勝ちなんてとんでもないのは当然駄目)ある程度はOKなのだ。
さてアブストラクトといえば、高尚で、突き詰めれば戦争をイメージした究極のシミュレーションというイメージがある。
高尚というのは、将棋や囲碁は名人戦があり、プロとして生活出来るのに対して、マンマミーアで飯を食える人はいない事からも分かる。
「私はマンマミーア6段で、年収は今度のウヴェ戦の賞金を合わせると2000万くらいですね」
第14回マンマミーア札聖戦
……
5手 名人 ペパロニ3 引き サラミ1 オリーブ2
6手 あきお6段 パイナップル1 引き マンマミーア
実況「おっとここであきお6段マンマミーアカードを引きました」
解説「動きますか?」
7手 名人 オリーブ2ミックスレシピ
実況「おっと、ここで名人たまらず動いた!」
解説「動きましたねえ、このミックスレシピが後々どのように響いてくるのでしょうか」
実況「あきお6段、長考です」
解説「ここは大事な場面ですからね。どう出ますか」
なんてあったらおもろいんやけどなあ。
本題に戻って、果たしてアブストラクトは戦争の本質であるといえるのか?
007にもあったが、チェスの世界チャンピオンがボンドを追いつめるという話。チェスの強い人=優秀な参謀(指揮官)みたいなイメージがあるが、果たしてそうなのだろうか?
よく考えてみよう。戦争をやる場合、相手の戦力や作戦、通信など全ての情報は公開されているか?
誰にでも解る。答えはノーである。
戦争とは対等な条件で戦ってる訳ではない。情報がどれほど大切かは最近の戦争を見れば明らかである。むしろ戦争とは情報をどのように手に入れるかが勝敗に大きく関係しているくらいだ。つまりチェスが強いからといって、実際の戦闘指揮官になった奴はいないし、参謀になった奴もいないという事である。この2つはまったく別物である。戦争とは常に予期せぬ事態が起きるもので、アブストラクトとは対極にあると思って間違いない。それこそ、羽生名人よりも、マンマミーア6段の人の方が指揮官に優れてる可能性は秘めてるかも知れない。まあ、羽生名人がマンマミーア異常に強かったら知らないが。
つまり将棋などは、戦争をモチーフにした極めてゲーム的なゲームといえるのだ。
そう考えるとアブストラクトこそゲームの中のゲームとも呼べる。洗練されているからだ。
ただ、わしのようなイメージから入るタイプのジョカトーレから言わせると、戦う意義が見いだせないのがアブストラクトでもあるのだ。
なんで戦うの? なんの為に?
将棋や囲碁などはまだ戦争をモチーフにしてるからいいとして、今最も評判のギプフプロジェクトなどはそんなものを感じられない。感じられないからゲームとして面白くないと言うてるんじゃなく、わしみたいなジョカトーレからすると何に対して戦うかという意義が見いだせないと燃えないという事をいいたいのだ。
具体的な目的、これが欲しい。
アブストラクトは通じて、相手と自分との智恵比べを目的としている。つまり目的は相手を倒す、その一点である。わしは誰が優れたピッツァヨーロか、誰が優れた開拓者か、誰が優れた君主であるか、そういったもので競い合いたいのだ。単に相手を倒すのが目的なら、素晴らしいシステムであっても、楽しいとは思えない。わしがゲームに求めてるのはシステムではなくテーマなのだ。
これはつまり、テーマが違えば面白いと思ってるゲームもつまらなくなるし、つまらないと思ってるゲームも面白くなる可能性が大いにあるという事だ。
個人的にはあまり好きではないが、カフナでカウンティングしてたように、まだ何かテーマがあるとカウンティングしようって気にもなるが、何のテーマもなくただ単に相手を打ち負かすというものであれば、無意識に脳が嫌がってカウンティングしやがらない。いくら、ホッケーや野球がおもろいとわしが思っていても興味が湧かない人には(頭が嫌がって)つまらないものとしか映らないだろう。そうでないと全ての人は現存する全種類の趣味を自分の趣味としなければならなくなる。
とまあ、アブストラクトが好きじゃない人にはこういう理由がある。システムにそれほど魅力を感じないという事である。テーマがあってのシステムだと思っているので、システムが斬新であっても意味がない。システム好きを例えるなら、発明家は発明する事に意義を見出し、意味もなく発明するのである。よく言われている『必要は発明の母である』というのは嘘だ。かのエジソンも蓄音機を発明した時、何に使おう? と思い、結局、「この発明は役に立たん」と切ってすてた話は有名だ。ほとんどの発明はこのパターンである。わしは必要だから使いたい、そう考えてる。
例えば、うんこ味がする牛肉が発明されたとしよう。とても画期的である。その飼料を食わせるだけでその牛の肉汁がうんこ味なのだ。将来何かの役に立つのであれば、この発明を認めるのがわしであるが、現時点では役に立ちそうにない。いくら凄い発明であっても「ふーん」でおしまいである。ちなみに多くの発明家はこのような一見何の価値もなさそうなものを発明する。
ここらへんは、プレイヤーに限らず、システム先行タイプのデザイナーとテーマ先行のデザイナーがいるように人それぞれである。
さて何故アブストラクトが苦手な俺が唯一、フォーカスだけの評価が高いか。考えうるに理詰めでないからでないか。アブストラクト大好きでアブストラクトはテーマ性がないところが嫌だと書いたが実はそれだけではないようなのだ。つまり理詰めが嫌いなのだ。
一手一手が大切すぎて、失敗すると後々まで響いてくる。これが嫌いなのだ。デュボンでも最初のラウンドで負けが確定している。逆にアブストラクト好きな人は、こう考えるだろう。この一手は次の布石だ、と。
俺などは、悪手を打ってしまうと、自分が駄目な人間だと思ってしまう。悪手の言い訳はアブストラクトには用意されていない。言い訳する運という要素がどうしても欲しくなる。まあ、悪手やったけど結果オーライなんて事もありえると安心してゲーム出来る。
フォーカスには運の要素はないかわりに、一手の大切さというのもない。というより失敗してもその失敗が分かりにくいのだ。この理屈から言えばチェスより将棋の方が膨大な選択肢があり、なんとかなりそうな気がするのでまだやってみて楽しいといえる。
アブストラクトにおける一手の大切さはなんとなくプレイする俺には到底我慢出来ない代物である。
かつてNFLのスーパースター、ジョーモンタナを語る言葉にこういったものがある。この時代、通じて優秀なクォーターバック成績をあげてたのはダンマリーノであった。
「偉大なプレイヤーというのはいつも偉大なプレイをする訳ではない。ここぞという時に偉大なプレイをするから偉大なプレイヤーと呼ばれるのだ」
そうクォーターバック成績ならダンマリーノにまったく歯が立たないモンタナであったが、偉大なプレイヤーと呼ばれたのはここぞという時に、偉大なプレイをしたモンタナだった。皆はそれをモンタナマジックと呼んだ。
去年の阪神の金本を考えてみよう。打率は2割8分9厘、リーディングヒッターとなった今岡に比べるまでもない。しかし、最も阪神の優勝に貢献したのは間違いなく金本だと断言できる。
もちろんアブストラクトでもこのような一手というのはあるが、あくまでそれは一手一手の積み重ね上にあり、また経験による実力が伴わないとその一手を打つどころか理解する事すら難しい。ところが運という要素は実力がなくても積み重ねがなくてもその一手を気軽に楽しむ事が出来るのだ。それを是とするか否とするかがアブストラクトに対する評価の分かれ目だろう。いい加減なプレイをしたい俺は毎回ミスなく打つのはたまらなく苦痛なのだ。これは勝ち負けにこだわるというのではない。実際にアブストラクトに負けても悔しくともなんともない。つまりゲームに肩入れしていない証拠である。これはゲームを楽しむ為の基本的な心構えの不足である。
それにつけてもアブストラクトというのは数学的である。アブストラクトに勝った時の気持ちは複雑な数式を解いたそんな感じになるし、負けた場合は解が間違ってた感じになるのだ。出題者は対戦相手である。出題者が弱い場合は簡単な問題になるし、出題者が強い場合は難問となる。数学好きな人がアブストラクト好きが多いのは十分頷ける。
アブストラクトは言い換えれば数学の問題をお互いに出し合ってる遊びなのだ。
「この問題が解けるか?」と。
教えてperfavoreなんてコンテンツを作ってみたが、今はおもろいおもろないと断じるのではなく、好みがあるというのを知った。自分はつまらなくても他人にはおもろいのでは、というレビューを書こうと思う。つう訳で一時は自分の価値観は絶対だと思ってたクリスチャンな時期も終わり、ボードゲーム嗜好テストのように好みというのを理解した今、教えてperfavoreの意味もなくなったので廃止しようと思う。あまり意義を見いだせなくなったので。
俺たちゃ、どんなけピザ作ったか勝負したいんじゃい!
by 4くにちー あきお
gioco del mondo